♪さらばスバルよ!

憧れのスバルはポルシェと同じく、水平対抗の「ボクサー・エンジン」のサウンドが快かった。しかし、強固なボディの重量か、エンジンのパワー不足か「かったる~く」感じた。しっかりはしているが重たいものを引きずっている感じが不満だった。庭に駐車中の或る日、隣の石膏製のストーブの煙突が強風で倒れ、ボンネット上で炸裂!粉々に飛び散ったのを見て、塗装修理を覚悟したが、なんと?フェンダーに着いていた車幅麦球が切れただけで何処も引っ込んでいなかったのには驚いた。ブレーキの浪打現象でメーカーにクレームを申し出、ディスクブレーキのローターを交換したり、かなり手間のかかる代物だったが、使い込むにつれ、ようやく落ち着き、エンジンも回るようになってすっかり馴染んだと同時にパワーも感じるようになった。あれほど憧れていたレオーネに、真っ白いアルミホイールと、キャラメル・トレッド・パターンのラリータイヤを履かせてサロマ湖の砂地を走破したり、キャンプの浜辺でのスタックからの脱出やら思い出は尽きない。13万kmも乗ったレオーネをどうしても欲しいと言う人が現れた。ネイチャーガイドの方らしい。その頃、僕は某メーカー系ディーラーさんの広告の仕事で、大変お世話になっていたため、6年間一緒に暮らしたスバルを諦め、彼に譲ることに決めた。「男はつらいよ!」。時代は、バブルの予兆が始まっていた。

憧れのスバルよ!

「じゃじゃ馬ジープ嬢」とは、キッパリと別れ、残された「FRの乗用車」のキズの修復を始めた。パテでエクボを埋めたり、水とぎで平らにして同色のニッペのスプレーで塗装したり、コンパウンドで磨いたり。さすがに3台目の塗装は手馴れたものでうまく行った。ジープを譲ったお金と、このクルマの下取りで、4WDの乗用車を買って1台きりにしょうと思い修復作業は念入りだった。当時スバルと他メーカーの2社しか4WDの乗用は無く、ショールームで見比べた。当時のスバルは外見もしっかりしていて内装も上質だった。決め手は何と言っても見えないクルマの床底だった。防錆処理とパイプ類などが露出していない平らな床底。インパネのダイヤル風の部品がBMWに似ていたところも気に入った。何と僕の修復はかなり評価が高く「きれいに乗っていらっしゃいますね・・・」と言われ、下取りもそこそこ高く取ってもらったおかげで毎月の支払いも押さえられ、それほど重い負担にはならずに済んだ。「芸は身を助く」だ。こうして憧れのスバルのツーリングワゴンを手に入れた僕は、やっぱりクルマには「ツイている!」

冬の北見峠?(間、一髪!)

1972札幌冬季オリンピックの時、スバルの5ドア4WD車が五輪のオフィシャルカーとして活躍した。あの時競技場の恵庭岳や手稲山でスバルの4WD車をよく見かけた。当時ジープなどRVタイプ以外の乗用車タイプの4WDは珍しく僕もあこがれた一人だった。いつかは4WDに乗ってみたいと思い続けていたが、数年後の正月、一台目に購入の新車のFR車にカメラ3台、防寒具、ガソリン補助タンクを積んで一人で網走まで写真撮影に出かける途中の出来事だった。珍しく雨まじりのシャーベット状の北見峠の急な上り坂はFR車には後輪のグリップをやっと保つほどでアクセルのコントロールに気を使った。右カーブに差し掛かった時、山陰から大きく膨らんで曲がってくる対向車に一瞬ハンドルを左に切って避けようとした途端、僕のFR車は左外に流され雪に突っ込んで、一瞬にしてフロントガラスが雪で見えないまま停まった。何が起きたか理解できず、恐る恐るドアを開けた。意外にも元の道路に戻っていたのだ。夢中でカウンターステアを切っていたのか?僕のクルマの脇をスバルの4WDに乗った若者のスキーヤーがゆっくり眺めながら走り去った。ライトもガラスも割れず、クルマも僕も無傷で済んだが、状況を見て驚いた、峠の除雪作業車が谷に落とし切らずに残した雪山が僕を救ってくれたのだった。あの雪が残されていなかったら、谷底に転落していたと思った瞬間、頭の血がサッと引いたのを今も鮮明に覚えている。あれだけ用意周到で、安全に日中の峠越えを考えていたが、真冬の峠はいつも危険がはらんでいる。下りの車にしても、大きく膨らんだ原因は路面状況とスピードの出しすぎだと思われる。この時、すれ違ったスバルを見て、4WD車の30万円の差額も、人命を考えれば、決して高い買い物ではないかと感じたものだ。

空飛ぶスバル?(手稲山編)

親子ほど年の差があった飛行機乗りの兄から聞いていた日本の零戦(0式戦闘機)は、軽量で運動能力に優れていて敵機には恐れられる存在だったらしい。それで6,000円のサニーの鉄板の薄さにも、零戦の血が?と、うなづけた。終戦後の日本は、飛行機作りの優れた技術をクルマの製造に向け、戦車の技術を建設機械に向けた。大国相手に戦った日本やドイツは敗戦後は工業大国に急成長している。技術力を海外に拡げ、工業後進国に指導した。その国々も今では日本を脅かすほどに発展している。僕は仕事柄、カメラマンと空撮に同行しセスナに乗ることも多かった。標高500mくらいの手稲山のスキー場空撮の時は何度も何度も旋回して、ようやく頂上まで上昇した。パイロットに聞いたが、エンジンは小さなスバルだと。大阪で従兄弟に乗せてもらった前開きドアのスバル360(ビートル)を思い出した。